掌中の珠
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帯津良一さんのエッセーを読んでいて、思いがけない文字に目が留まる。
「掌中の珠」
こんな慣用句があったとは。
今まで気にとめていなかったが、
掌中の珠
まさに
わたしはある時期から手の中に珠をいただいた。
その珠は
はじめは蟠桃という桃、翡翠か瑪瑙のような玉でできた桃だった。
それが、時を経て知らない間に宝珠のような蓮のつぼみのような形にかわった。
このブログのどこかに書いたかもしれない。
掌中の珠
手の中に珠を抱いている。
なんと
この珠を
思い出させていただいた。
これは偶然ではない。
帯津良一さんのエッセーは、初めて訪中されたときの北京での話だった。
掌中の珠。
わたしは掌中に珠をいただいたのだ。
思いだした。
蟠桃、
孫悟空の桃。
わたしが愛してやまない中国の美しいすばらしいもの、こと、
掌中の珠を与えていただいたことを
忘れてはいけない。
なんてすてきな
帯津先生に感謝。
そして
忘れていてはいけない事々に
思いをはせよう。
そういえば、お昼間にも野見神社の桜に「誇りを持て」と言われたことを思いだしていた。
感謝。