覚書

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無縄自縛

 
縄もないのに、みずからわが身をしばること。迷者は迷いに、悟者はさとりにとらわれて、自由になることのできない状態をいう。
 
仏縛というは、菩提を菩提と知見解会(ちけんげえ)する、即知見、即解会に即縛せられぬるなり。一念を経歴(きようりやく)するに、なほいまだ解脱の期(ご)を期せず、いたづらに錯解(さくげ)す。菩提をすなはち菩提なりと見解(けんげ)せん、これ菩提相応の知見なるべし。たれかこれを邪見といはんと想憶す。これすなはち無縄自縛なり。縛縛綿綿として樹倒藤枯(じゆとうとうこ)に=共倒れにあらず、いたづらに仏辺の?窟(かくつ)に活計(かつけ)せるのみなり。法身(ほつしん)のやまふをしらず、報身(ほうしん)の窮をしらず、教家(きようけ)・経師(きようじ)・論師(ろんじ)等の仏道を遠聞(おんもん)せる、なほしいはく、即於法性(そくおほつしよう)、起法性見(きほつしようけん)、即是無明(そくぜむみよう)《法性に即して、法性の見を起こす、即ち是れ無明なり》。この教家のいはくは、法性の法性の見(けん)おこるに、法性の縛をいはず、さらに無明の縛をかさぬ。法性の縛あることをしらず。あはれむべしといへども、無明縛のかさなれるをしれるは、発菩提心の種子となりぬべし。いま行仏、かつてかくのごとくの縛に縛せられざるなり。かるがゆゑに、我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数《我れ本より菩薩道を行じて、成る所の寿命、今なほ未だ尽きず、また上の数に倍せり》なり。しるべし、菩薩の寿命、いまに連綿とあるにあらず、仏寿命の過去に布遍せるにあらず。いまいふ上数は、全所成なり。いひきたる今猶は、全寿命也。我本行たとひ万里一条鉄なりとも、百年(はくねん)抛卻(ほうぎや)任(にん)縦横なり。
 
仏法の真髄を言葉による分析知で把握することはできない。〈菩提〉とか〈解会〉という言葉によって、その〈如是実相〉を把握することは不可能なのである。それを〈無縄自縛〉という。経文や事象の文底をどう開くか。道元はその〈方法的原理〉を、さまざまな譬喩で展開する。「即於法性、起法性見、即是無明《法性に即して、法性の見を起こす、即ち是れ無明なり》という教家の〈言葉〉は、その文底を幾重にも開かなければ、〈如是実相〉を把握することはできない。
 〈教家・経師・論師〉とは何か。仏法が説く〈色心不二・久遠即末法〉、〈種・熟・脱〉、〈肯定即否定〉、〈能動即受動〉などの法理に〈無知〉で、〈発心〉もない〈政治家〉や〈評論家〉、〈学者〉に留まる者は、すべて、〈教家・経師・論師〉となる。〈教家・経師・論師〉の〈言葉〉に〈感動〉したり〈同調〉する〈心〉も、その〈眷属〉にほかならない。文上の論理を〈肯定〉しても〈否定〉しても、その〈心〉は文上に留まり、〈歴劫修行=トートロジー〉の徒となる。それを、道元は〈法性の縛・無明の縛〉、すなわち〈自縄自縄〉を重ねることになる、と警告しているのだ。
〈自縄の縛〉の〈呪〉を断ち切る〈方法的原理〉は〈行仏〉にある。〈行仏〉とは。法華経寿量文底の妙法を信受することである。「菩薩の寿命いまに連綿とあるにあらず、仏寿命の過去に布遍せるにあらず。いまいふ上数は、全所成なり。いひきたる今猶は、全寿命也。我本行たとひ万里一条鉄なりとも、百年抛卻任縦横なり」という道元の〈譬喩〉は、寿量品の「我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数」の文底を開き、〈色心不二・久遠即末法〉の法理を照らし出す。「我本行たとひ万里一条鉄なりとも、百年抛卻任縦横なり」の〈万里一条鉄〉は〈色心不二〉、〈百年抛卻任縦横〉は〈久遠即末法〉となる。
 
正法眼蔵(1231‐53)行仏威儀「たれかこれを邪見といはん。想憶す、これすなはち無縄自縛なり」 〔臨済録