吉野 弘 :詩  

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祝婚歌        

 

 

 

二人が睦まじくいるためには

 

愚かでいるほうがいい

 

立派すぎないほうがいい

 

立派すぎることは

 

長持ちしないことだと気付いているほうがいい

 

完璧をめざさないほうがいい

 

完璧なんて不自然なことだと

 

うそぶいているほうがいい

 

二人のうちどちらかが

 

ふざけているほうがいい

 

ずっこけているほうがいい

 

互いに非難することがあっても

 

非難できる資格が自分にあったかどうか

 

あとで

 

疑わしくなるほうがいい

 

正しいことを言うときは

 

少しひかえめにするほうがいい

 

正しいことを言うときは

 

相手を傷つけやすいものだと

 

気付いているほうがいい

 

立派でありたいとか

 

正しくありたいとかいう

 

無理な緊張には

 

色目を使わず

 

ゆったり ゆたかに

 

光を浴びているほうがいい

 

健康で 風に吹かれながら

 

生きていることのなつかしさに

 

ふと 胸が熱くなる

 

そんな日があってもいい

 

そして

 

なぜ胸が熱くなるのか

 

黙っていても

 

二人にはわかるのであってほしい

 

 

 

 

 

 

 

 

 いのち

生命は

 

 

 

生命は

 

自分自身だけでは完結できないように

 

つくられているらしい

 

花も

 

めしべとおしべが揃っているだけでは

 

不充分で

 

虫や風が訪れて

 

めしべとおしべを仲立ちする

 

生命は

 

その中に欠如を抱き

 

それを他者から満たしてもらうのだ

 

 

 

世界は多分

 

他者の総和

 

しかし

 

互いに

 

欠如を満たすなどとは

 

知りもせず

 

知らされもせず

 

ばらまかれている者同士

 

無関心でいられる間柄

 

ときに

 

うとましく思うことさえも許されている間柄

 

そのように

 

世界がゆるやかに構成されているのは

 

なぜ?

 

 

 

花が咲いている

 

すぐ近くまで

 

虻の姿をした他者が

 

光をまとって飛んできている

 

 

 

私も あるとき

 

誰かのための虻だったろう

 

 

 

あなたも あるとき

 

私のための風だったかもしれない

 

 

 

 

 

 

 

 

夕焼け

 

 

 

いつものことだが

 

電車は満員だった。

 

そして

 

いつものことだが

 

若者と娘が腰をおろし

 

としよりが立っていた。

 

うつむいていた娘が立って

 

としよりに席をゆずった。

 

そそくさととしよりが坐った。

 

礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。

 

娘は坐った。

 

別のとしよりが娘の前に

 

横あいから押されてきた。

 

娘はうつむいた。

 

しかし

 

又立って

 

席を

 

そのとしよりにゆずった。

 

としよりは次の駅で礼を言って降りた。

 

娘は坐った。

 

二度あることは と言う通り

 

別のとしよりが娘の前に

 

押し出された。

 

可哀想に

 

娘はうつむいて

 

そして今度は席を立たなかった。

 

次の駅も

 

次の駅も

 

下唇をキュッと噛んで

 

身体をこわばらせて――。

 

僕は電車を降りた。

 

固くなってうつむいて

 

娘はどこまで行ったろう。

 

やさしい心の持主は

 

いつでもどこでも

 

われにもあらず受難者となる。

 

何故って

 

やさしい心の持主は

 

他人のつらさを自分のつらさのように

 

感じるから。

 

やさしい心に責められながら

 

娘はどこまでゆけるだろう。

 

下唇を噛んで

 

つらい気持ちで

 

美しい夕焼けも見ないで。

 

 

 

 

 

 

 

 

奈々子に

 

 

 

赤い林檎の頬をして 眠っている

 

奈々子。

 

お前のお母さんの頬の赤さは そっくり

 

奈々子の頬にいってしまって

 

ひところのお母さんの つややかな頬は少し青ざめた

 

お父さんにも ちょっと 酸っぱい思いがふえた。

 

唐突だが

 

奈々子

 

お父さんは

 

お前に 多くを期待しないだろう。

 

ひとが ほかからの期待に応えようとして どんなに

 

自分を駄目にしてしまうか お父さんは

 

はっきり 知ってしまったから。

 

お父さんが お前にあげたいものは

 

健康と 自分を愛する心だ。

 

ひとが ひとでなくなるのは

 

自分を愛することをやめるときだ。

 

自分を愛することをやめるとき

 

ひとは 他人を愛することをやめ

 

世界を見失ってしまう。

 

自分があるとき

 

他人があり 世界がある。

 

お父さんにも

 

お母さんにも

 

酸っぱい苦労がふえた。

 

苦労は 今は お前にあげられない。

 

お前にあげたいものは

 

香りのよい健康と

 

かちとるにむずかしく

 

はぐくむにむずかしい

 

自分を愛する心だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人もまた、一本の樹ではなかろうか。

 

樹の自己主張が枝を張り出すように 人のそれも、

 

見えない枝を四方に張り出す。

 

 

 

身近な者同士、許し合えぬことが多いのは

 

枝と枝とが深く交差するからだ。

 

それとは知らず、いらだって身をよじり 互いに傷つき折れたりもする。

 

 

 

仕方のないことだ 枝を張らない自我なんて、ない。

 

しかも人は、生きるために歩き回る樹 互いに刃をまじえぬ筈がない。

 

枝の繁茂しすぎた山野の樹は

 

風の力を借りて梢を激しく打ち合わせ

 

密生した枝を払い落とす――と

 

庭師の語るのを聞いたことがある。

 

 

 

人は、どうなのだろう?

 

剪定鋏を私自身の内部に入れ、

 

小暗い自我を 刈りこんだ記憶は、

 

まだ、ないけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雪の日に

 

 

 

雪がはげしくふりつづける

 

雪の白さをこらえながら

 

 

欺きやすい雪の白さ

 

誰もが信じる雪の白さ

 

信じられている雪はせつない

 

 

どこに純白な心などあろう

 

どこに汚れぬ雪などあろう

 

 

雪がはげしくふりつづける

 

うわべの白さで輝きながら

 

うわべの白さをこらえながら

 

 

雪は汚れぬものとして

 

いつまでも白いものとして

 

空の高みに生まれたのだ

 

その悲しみをどうふらそう

 

 

雪はひとたびふりはじめると

 

あとからあとからふりつづく

 

雪の汚れをかくすため

 

 

純白を花びらのようにかさねていって

 

あとからあとからかさねていって

 

雪の汚れをかくすのだ

 

 

雪がはげしくふりつづける

 

雪はおのれをどうしたら

 

欺かないで生きられるだろう

 

それがもはや

 

みずからの手に負えなくなってしまったかのように

 

雪ははげしくふりつづける

 

 

雪の上に雪が

 

その上から雪が

 

たとえようのない重さで

 

音もなくかさなっていく

 

かさねられていく

 

かさなってゆくかさねられてゆく

 

 

 

 

 

 

 

 

自分自身に

 

 

 

他人を励ますことはできても

 

自分を励ますことは難しい

 

だから―――というべきか

 

しかし―――というべきか

 

自分がまだひらく花だと

 

思える間はそう思うがいい

 

すこしの気恥ずかしさに耐え

 

すこしの無理をしてでも

 

淡い賑やかさのなかに

 

自分を遊ばせておくがいい

 

 

 

 

 

 

 

 

素直な疑問符

 

 

 

小鳥に声をかけてみた

 

小鳥は不思議そうに首をかしげた

 

 

 

わからないから

 

わからないと 素直にかしげた

 

あれは 自然な、首のひねり

 

てらわない美しい疑問符のかたち。

 

 

 

時に 風の如く

 

耳もとで鳴る

 

意味不明な訪れに

 

素直にかしぐ、

 

小鳥の首でありたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

I was born

 

 

 

確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

 

或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 

青い夕靄の奥から浮き出るように 

白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 

女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から眼を離さなかった。

頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し 

それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 

女はゆき過ぎた。

 

少年の思いは飛躍しやすい。 

その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。

 

―――やっぱり I was born なんだね―――

 

父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。

 

――― I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。

自分の意志ではないんだね―――

 

その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。

僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。

それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 

父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。

―――蜉蝣という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが 

それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね―――

 

僕は父を見た。父は続けた。

―――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光りの

粒々だったね。

私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。

そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは―――。

 

父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。

―――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体―――

  

 

(作者註:「淋しい 光りの粒々だったね」は詩集「幻・方法」に再録のとき、「つめたい光の粒々だったね」に改めました)