おまえは皆と歩いている
ビクトルはまいっていた。昨日の夕方から下痢が止らない。
高い草の茂みのなかに入り、じっとしゃがみこんでいる。
「こんなときは動いちゃいけない」
体を小さく丸めて腹を押さえ、かすかなうめき声をあげながらほとんど眠れぬままに夜をすごした。ズボンの尻の部分は水状の便がへばりついて、ごわごわになっている。朝になりまた便意が襲ってきた。身体中の水分が流れ出てしまうようだった。
「どうしてこうなっちゃったんだろう」
ビクトルは自分の胃腸に絶対の自信を持っていた。小さいころから食あたりなどほとんど経験したことはない。しかし、今回は何が原因かわからないが、やられてしまった。
ソリをなめた。草の先の隙間から射しこんでくる陽の光が、額の付近を刺激する。その度に、悪寒が起きた。震える身体を両手で抱かえながら「治れ、治れ」と唱え続けた。
上空では、数羽の大きな鳥が飛び交っている。
「みんなでぼくが弱るのを待ってるのかな」
ビクトルにはそう見えた。
「死んだら、あいつらに喰われちゃうんだろうな」死ぬのは怖いとは思わなかった。
「みんないなくなっちゃたんだし、ぼくも死んでもかまわないよな」
そうつぶやいた。
「お前は生きて、行かなくちゃいけないよ」
誰かの声が聞こえてくる。
「どうして?もう歩けないよ」
ビクトルはいやいやするように首を振った。
「いらないって放り出されたんだし」
「違う、違う」
という声は、フョードルのようでもあったし、クセーニアのような響きもあった。
「お前は、行かなくちゃいけない。お前がここで死んでしまったら、みんなが死ぬんだ」
「みんな?みんなって?」
「お前が生まれてくるまでに起きた全てのこと。お前を育てた全てのもの。お前が死んだらそれも死ぬんだ」
声は次第に何人もの響きが重なってくるようだった。
「ようく耳をそばだててみろ。お前に向かって大勢の人が呼んでいるのが聞こえないのか?
ビクトルは目が先に反応し、きょろきょろした。声の響きは歌声のようになりだした。
「フョードルを思い出せ。コーリャを思い出せ。ペシコフを思い出せ。浅野部隊にいたシニーツィンを思い出せ。ジキトフカで騎馬戦を見せてくれた男たちのことを思い出せ。みんながお前に教えてくれた。皆がお前に見せてくれた。お前は皆と歩いているんだ。
行くんだ、ビーチャ。行かなくちゃいけないよ」
たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く 石村博子 著